みなさんこんにちは。
 
常連さん達は、ご存じでしょうけど
私の町は、20年前に阪神淡路大震災で被災しました。
 
西宮市の被害の概況は、次のとおりでです。
1 死 亡 者 1,146人(震災関連死及び市外で死亡した市民12人を含む)
2 倒壊家屋  61,238世帯
       (全壊34,136世帯 半壊27,102世帯)
3 避 難 所 最大時 平成7年1月20日 194ケ所
4 避 難 者 最大時 平成7年1月19日 44,351人
5 避難勧告  阪神・淡路大震災にかかる避難勧告は平成9年6月16日をもって全て解除
 
 
当時は、私もバカな若者(20代前半)でしたから友人と
深夜の六甲山(峠)を走っておりました。 
有る程度走り込み頂上の展望台から東六甲を走り、途中で
芦屋有料道路を使い家路に。
まさかこの芦屋有料道路があと4~5時間で崩れて無くなるなんて
思っても見ませんし今考えると5時間後の早朝まで走っていたら
私は、この世に居ないかもしれませんでした。
 
私の仕事は、当時和菓子職人です。
幸い私の店と実家(和菓子工房)は、業務用大型冷蔵庫など倒れましたが
片付けたら何とか仕事が出来る状態でした。
 
被災後4日で店舗内の500個ほどの焼き菓子(お饅頭)や最中を
店が再開出来ない状態なので避難所(西宮中央体育館)に持っていきましたが
私の持ってきた和菓子を見て半泣きで喜んでいたおばちゃんの事を
今でもはっきり記憶しています。
『もう、こんなお饅頭食べられへんかと思っいたよ~。』
『兄ちゃんありがとうな、みんなと有りがたく食べるわな。』
 
その時に私は、気づきました。
和菓子ってどんな状況でも人を笑顔に出来る物だと言う事。
そんな和菓子を作る仕事をしている事を誇りに思います。 
 
 
話は、変わりますが走り屋仲間(同級生友人)の家は、
芦屋市にて洋菓子屋を営んでおりました。
友人のお父様が経営する洋菓子店は、建物が全壊になってしまったんです。
かろうじて古く大きな業務用電気オーブン釜が建物を支えていたと
友人は、言っていました。
 
そして友人のお父様は、洋菓子店廃業。
 
和菓子でも洋菓子でもこのような大きな銅鍋を使うので
20年前、友人のお父様から頂きました。
 
 
私の仕事場で震災後20年経っても
お客様に喜ばれる菓子作りに被災した銅鍋は、
頑張って働いています。
そして私が和菓子職人を辞めない限り使い続けていると思います。
 
本日は、真面目なお話でした。
最後まで読んで頂きありがとう御座いました。
 
 
 
 
 
 


「阪神淡路大震災から20年 被災した業務用銅鍋」に6件のフィードバックがあります

  1. SECRET: 0
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    こんにちわ❗
    震災の日 朝テレビを付けて ビックリしたのを 覚えてます。
    最初 何がなんだか 分かりませんでした。
    阪神淡路大震災も 忘れちゃいけない震災ですよね…

  2. SECRET: 0
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    当日、愛知県でもかなり揺れ、目が覚めました。その日は、早朝7時からの勤務でしたので(車出勤)ラジオで状況を聞いていましたが、身体が震える思いでした。

  3. SECRET: 0
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    ブンブン丸さん>
    あの時は、怖い物知らずでしたが地震ってホンマに怖いと痛感しました。
    自然の力に対して人間の力は、小さいですが毎年毎年少しずつ復興して今があります。
    そちらも頑張って下さい。

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    まこさん>
    鉄道会社の方は、さぞかし大変だったと思います。
    高架橋は、落ちて線路は、グニャグニャでした。
    そんな中、町の人々の為に日夜復興作業をしておられたと記憶しております。

  5. SECRET: 0
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    もう20年なのかたった20年なのか?わかりませんが。
    眠ったまま遠くから聞こえてくる地響きのような音に飛び起きたのはよく覚えてます。
    あそこから復旧するって人間は強いですね。
    銅鍋はいつまでもいい仕事しそうですな。

  6. SECRET: 0
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    もりたさん>
    気が付けば20年って感じですね。
    ホンマに復興時5年は、商売も厳しかったです。
    みなさん和菓子買うより家を直さないと行けませんから。
    今も厳しいのは、なぜ~?(*_*)

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